PEACE STORIES

聖フランシスコとオオカミ

イタリアのグッビオという村で、乱暴なオオカミが一人の村人を食べてしまいました。怒った村人は、オオカミを見つけ出して殺そうと、ナイフや斧、干し草用の大きなフォークを持って広場に集まりました。

鳥や獣の言葉がわかる聖フランシスコは、村人たちより先に森に行き、オオカミに会ってこんな話をしました。

「兄弟なるオオカミよ、なぜあんなことをしたのですか? あなたにとって何が問題なのですか?」
「腹が減ってがまんできなかったんだ!」
「だからといって罪のない村人を食べてよいことにはならないでしょう」
「ほかに何も食べる物がなかったんだから、仕方ないじゃないか!」
「もし、村人たちが夕食の残りを鍋に入れて与えてくれたら、あなたはそれを食べて、人を襲うのをやめてくれますか?」
「そうしてやってもいいが、1回だけだぞ」
「ありがとう、わたしの兄弟よ」

オオカミと話した聖フランシスコは、すぐにグッビオに帰って、村人たちに語りかけました。

「あなたがたの問題は何ですか?」
「オオカミだ。われわれの仲間を食べてしまったんだ。殺してやる」
「オオカミはおなかが空いてがまんできなかったと言っています。どうでしょう、夜、鍋に夕食の残り物を入れて、オオカミに食べさせてくれませんか?」
「そうしてやってもいいが、1回だけだぞ」

こうして村人たちは、オオカミに食事の残り物を与え始めたました。するとどうでしょう、オオカミは村人を襲わなくなりました。互いに「1回だけ」と言っていたのに、何回も続けているうちに、なんとオオカミと村人は、いつのまにか友だちになってしまったのでした。

イラスト

Perez and Columbus, or, The Franciscans in America - by Francis Dent. (1903)

さて、暴力行為の原因を理解しようとすることは、それを容認することとはちがいます。理解するのは、原因を取り除いて、将来ふたたび同じ悲劇が起こるのを防ぐためです。

2001年9月11日にニューヨークとワシントンで「同時多発テロ」が発生したとき、イタリアはアメリカに協力して、イラクのサダム・フセインを攻撃しようとしました。

国際紛争の解決に取り組んでいるヨハン・ガルトゥングは、イタリア軍の武官たちと話をしたとき、イタリア人ならだれでも知っている聖フランシスコとオオカミの物語にふれて、こう言いました。
「よく確かめもせずイラクを攻撃するのではなく、聖フランシスコが使った方法をサダム・フセインにも使うべきではないでしょうか?」

するとイタリアの軍人たちはこう答えました。
「フセインは確かにオオカミだが、われわれは聖フランシスコではない。現実は物語のようには進みません」

ガルトゥングは同時多発テロを扱ったオーストリアのテレビ討論番組にも出演しました。そこにはウィーン駐在のアメリカ大使も出ていました。

ガルトゥングが「まず、なぜこんなテロが起こったのかを理解しなければなりません」と指摘すると、アメリカ大使は怒って、「あなたはテロリストの行動を正当化したいのですか?」と激しく反論しました。

ガルトゥングは、残虐なテロを正当化することはできないけれど、テロリストがそのような行為に走った理由が理解できなければ再発を防ぐことができない、と説明しなければなりませんでした。

暴力をふるった相手の声に耳を傾けることは、暴力を正当化することでも容認することでもありません。もちろん、被害にあった側にも責任があるといって非難することでもありません。相手の話を聞くのは、互いに理解しあい、二度と同じことが起こらないようにするためなのです。